21話 『雨取千佳』
望実は憂鬱な気持ちを紛らわせるために、玉狛支部の廊下を歩いていた。
あと数日で、せっかく再会することができた友人と、離れてしまうかもしれない。
しかも、彼はこのままだとーー。
悪いほうに進んでいく思考に、望実は首を振って考えを晴らす。
自分は、遊真に何をしてやれるだろう。
物思いにふける望実が廊下を歩いていると、屋上へ続く階段の前で、千佳が立っているのが見えた。
「あ、望実くん…」
「雨取さん…」
2人はお互いの名前を呼んだ後、しばらく沈黙が流れる。
2人とも、自分からペラペラと話すほうではない。
それだけではなく、2人とも話さなければならない要件はあるものの、深刻な話題のため、どう切り出したら良いのか迷っているのだ。
そして、最初に口を開いたのは、望実のほうだった。
「あの、雨取さんはさ…、僕たちのこと、こわくないの…?」
「え…?」
それは、千佳にとって、あまりにも意外な質問だった。
「だって、僕も兄さんも、近界民だよ…?雨取さんを狙ったり、この街を壊したりしてるやつらと、僕たちは同じなんだ」
「……!」
悲しげに発せられたその言葉に、千佳は慌てて否定する。
「望実くんのこと、もちろん怖くなんてないよ!だって、修くんも玉狛の人たちも、望実くんのこと信頼してるんだもの!」
「雨取さんと彼らは違うでしょ」
「え…」
近界民から直接的な被害は受けていない、修や烏丸ならわかる。
4年前に近界民の侵攻がはじまる前から、彼らと対等に渡り合ってきた林藤や迅ならわかる。
しかし千佳は、ただ一方的に蹂躙されてきた被害者だ。
幼い頃から近界民に狙われ、戦う術も持たずに、大切なものを一方的に奪われてきたのだ。
そんな彼女が、どうして近界民である望実や遊真を、受け入れることができるだろう。
望実は、千佳が拒絶するのであれば、玉狛支部を出ていくつもりだった。
大切な人を失ったり、信頼できない人と共に過ごしたり。
そうした心の痛みが、誰よりもわかるから。
近界民の被害者である千佳が拒絶するのなら、自分はもうここにはいられない。
でも、もし彼女が受け入れてくれるのならーー。
「わたし、望実くんや遊真くんのこと。和希さんのことも、全然こわくないよ!」
「え…?」
自信を持って、堂々と告げられた千佳の言葉に、望実は少々面食らう。
サイドエフェクトを使ってみても、その言葉は嘘ではないように思えた。
「ど、どうして…」
「望実くん、和希さん、遊真くん。みんなが、わたしを狙って襲ってくる人たちとは違うんだって、わかるから」
千佳は、確信していた。
警戒区域で『バンダー』を倒して、千佳を守ってくれた時から。
彼らは、ボーダーの三輪隊からも、千佳を守ってくれた。
この人たちは、こわくない。この人たちは、信頼できる。
なお戸惑う望実に、千佳は優しく笑いかける。
「わたしたち、生まれた場所が違うだけだよ」
もし彼女が受け入れてくれるのなら。
僕たちは本当に、ここにいてもいいのかな。
「…こんなに幸せでいいのかな」
「え…?」
望実は俯いて、嬉しい気持ちを抑えながら話す。
「向こうの世界ではさ、兄さんしか頼れる人がいなかった。戦わされるし、過酷な仕事もさせられるし、孤独だし。本当につらかったから、逃げてきたんだ。でも…」
でも。こちらの世界は、何もかもが違った。
戦争もないし。生活も豊かだし。何より、そこにいる人たちが。
「こっちに来てからは、クラスメイトも良い人たちだし、玉狛の人たちや雨取さんは、僕たちが近界民でも受け入れてくれるし…。」
あの頃からずっと夢見ていた、戦争のない平和な世界。
「幸せなんだ。本当に。信じられないくらい。優しい世界だ。ここは」
今の気持ちを隠さない、本当の笑顔で笑った望実に、千佳も笑い返した。
「あのね、望実くん。いま屋上でね。修くんが遊真くんと話してるんだ。一緒にボーダーに入って、チームを作ってA級を目指そうって」
「そっか。いいなぁ。楽しそう」
「よかったら、望実くんも一緒にやらない?」
千佳が笑顔で彼を誘うと、望実はきょとんとした顔をする。
「え、僕のこと、誘ってくれるの?」
「うん。わたし、A級部隊になりたいんだ。だから、望実くんがいてくれたら、頼りになるし、楽しいと思う!」
本当に、なんて自由で、楽しくて。
わくわくする世界なんだろう。
「雨取さんや、三雲くんがいいなら…、僕も一緒にやりたい!」
勇気を振り絞って言った望実の言葉に、千佳の笑顔がこぼれる。
「千佳!」
「おっ。望実もいるじゃん」
そこに、話を終えた修と遊真も降りてきた。
「オサムに誘われてさ。おれも一緒にやるよ。オサムとチカが一緒なら楽しそうだしな」
「…うん!」
そして修が望実に、一言を話す。
「望実さん、僕と空閑と千佳でチームを組んで、A級部隊を目指したいんです。もしよかったら、望実さんも一緒にやりませんか?力を貸してほしいんです!」
修はまっすぐな瞳で望実を射抜く。
あぁ、遊真が彼になつくのも、わかる気がするな。
自分で決めた信念を曲げない。馬鹿みたいにまっすぐで。
僕達みたいな人を救えるのは、きっとー。
「もちろん、僕も一緒にやりたい。みんなと一緒なら、きっと楽しいと思うから」
そうして、修を隊長として、遊真、千佳、そして望実が、玉狛支部でチームを組んで、A級を目指すようになった。
4人そろって支部長室へ行くと、そこには林藤と迅、そして和希が待っていた。
「遅かったな。隊結成のための書類はもう揃えてあるぞ」
迅の予知と、和希の予測により、彼らの決断を予期していた3人。
そして、和希が一歩前に出て、修と千佳にまっすぐ誠意を伝える。
「三雲くん、雨取さん。本当に、2人を救ってくれてありがとう。望実と遊真のこと、よろしくね」
心からの感謝を伝え、和希は彼らの今後を祝福した。
どうか彼らが楽しい未来に向かうことができますように。
その夜、屋上で風に当たっていた和希のもとに迅が訪れた。
「よう和希。よかったな、あいつらが一緒にチームを組めて」
「えぇ。これで望実も遊真も、人生に甲斐を持って生きていけるのかなと思うと、ホッとしています」
和希は、愛する弟と、大切な友人たちの今後に思いを馳せる。
彼らの幸せを自分のことのように喜ぶ和希に、迅は一種の危うさを覚えた。
「…和希は、やらないのか?お前にとって、こっちの生活は、ちゃんと楽しいか?」
「僕は…、まだ怪我も治っていませんし、……あまり戦うことも、好きではないので」
目を伏せて話す和希に、迅は笑いかける。
「おれは、かわいい玉狛の後輩たちに、楽しい時間を過ごしてほしいと思って、今も色々と動いてる。おれが守ってやりたい後輩のなかには、お前もちゃんと含まれてるんだからな」
髪をくしゃりと撫でると、和希は照れくさそうにはにかんだ。
「玉狛でなくても、ボーダーでなくてもいい。お前が心から楽しいと思えるものを、見つけろよ」
「…はい」
これまでは、生き抜くことに必死だった。
望実を守ることに必死で、楽しむことなんて二の次だった。
でも今は、たった2人しかいなかった世界に、僕たちを守ってくれる人たちができた。
望実にも、僕以外に心を許せる人ができたんだ。
そこまで考えたところで、和希は迅に真剣は瞳を向ける。
「迅さん、遊真は黒トリガーです。玉狛に入ると、本部と衝突が起こるのでは?それに関する対応は、もう支部長と相談されているんですか?」
「おまえは本当に、危機管理がちゃんとしていて、頼りになるやつだよ。今、おれとボスで対応しているところだ」
「僕のコンサルティングは、必要ですか?」
「大丈夫さ。ボーダー内でのいざこざは、おれたちに任せろ。そのかわり、近界民とのことについては、お前の知恵を大いに借りるからな」
頼りになる先輩がいて、僕たちは本当に幸せだ。
嬉しさがこみあげて赤面する和希に、迅はどうしたんだと問いかける。
「いえ。これまで望実と2人きりで生きてきて、誰かに守られることとか、初めてだなと思って…」
「先輩が後輩を守るなんて、当然だろう?先輩には、頼っとくもんだ。お前もまだ、高校生なんだから」
迅が再度和希の頭をぐしゃぐしゃと撫でると、和希はやめてくださいと小さく返した。
夜は更けていく。しかし、彼らの思い描く未来は、明るいものだった。
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