16話『雨取千佳』
12月の、ある晴れた日。
遊真と望実は河川敷で、自転車の練習をしていた。
「うぉっ!?」
「ゆ、遊真、大丈夫!?怪我してない?」
「ヘーキヘーキ!おれはトリオン体だからね」
遊真が買ってきた自転車をよたよたとこぐが、望実も練習をうまくサポートできずに何度も倒れてしまう。
「こっちの人たちは、みんな自転車乗れるんだよね。すごいなぁ」
「二ホンでは何か特別な訓練を受けているのか?」
「さぁ…?僕と兄さんは2年こちらにいるけど、そんな訓練は聞いたことないなぁ」
半ば諦めてしまった遊真は、練習を止めて望実との雑談に興じる。
「そういえば、和希さん退院したんだよな。おめでとう」
「うん。兄さん、足と右肩の怪我がまだなおらないから、最近はずっとトリオン体で過ごしてるけどね」
「和希さんは今日来るのか?」
「うん。ちょっとやることがあるらしくて、僕が先に来ただけ。もうすぐ来ると思うけど、メールしてみるね」
「なるほど。じゃあ和希さんが来る前に、乗れるようになって驚かせてやろうぜ」
「クスッ。それいいね!」
望実は兄にメールを打つために携帯を取り出し、遊真は再び自転車に乗り始める。
そして、遊真が一際大きい音で自転車ごと転んだ時。
「だ、大丈夫!?」
1人の少女が、彼に声をかけた。
「大丈夫大丈夫。ヘーキヘーキ。ところでキミ、自転車乗れる?」
「え?う、うん…」
「やるね」
「そ、そうかな…」
少女が遊真を助け起こしていると、少し離れた場所で携帯を触っていた望実が駆け寄ってくる。
「遊真、大丈夫?その子は?」
「おれはへーきだよ。そういえば、オマエの名前を聞いてなかったな。おれは空閑遊真」
「僕は織本望実。遊真を助けてくれてありがとう」
「いえ…。私は雨取千佳。よろしくね」
そして遊真は、千佳にサポートしてもらいつつ、自転車の練習をすることとなった。
「おおっ!すごいすごい!前に進んでる!」
「倒れない!なんで!?」
「あはは」
千佳が自転車の後ろを支えると、遊真の自転車は倒れずに前へと進んでいく。
千佳からすれば何でもない光景だが、遊真と望実にとってはなかなかの不思議体験であった。
うっかり千佳が自転車から手を離してしまい、遊真が自転車ごと川に落ちてしまったのも、ご愛敬である。
しかし、それもつかの間。
ウーーーー
警戒区域で警報音が鳴り、3人が反射的にそちらを向く。
「ごめん!私もう行くね!」
少女がそちらに向かって走り去ったのを、怪訝そうに遊真が見つめる。
「おいおい、そっちは警戒区域だぞ?望実、あいつは何を考えてたんだ?」
望実は、サイドエフェクト『エンパス』により、千佳の心情を読んでいた。
「遊真、あの子の感情…、まずいかも…」
望実が少女を追って走り出したのを見て、遊真もそれを追いかける。
河川敷には、1つの自転車だけが残されていた。
そして、数分後その場所に現れた影が2つ。
「望実のメールには、このあたりって書いてあるんだけどな…」
和希は、そこにポツリと残された自転車を見て思案する。
(遊真もいるんだ。何者かに攻撃を受けて、連れ去られたなんてことはそうそう起こらないと思うけど…)
自分か望実が待ち合わせ場所を間違えたか。それとも、もう1つの可能性。
そして目の前には、今の状況を把握する手がかりになりそうな人物が、1人。
「あいつ…、どこにいるんだ?」
同じく、ここで誰かと待ち合わせをしていたらしいメガネの少年が、誰かに電話をかけようとしているのが見える。
「ねぇ君、もしかして、三雲修くんかな?」
「え…!?そうですが…」
「やっぱり。遊真から少し話を聞いていてね」
空閑の知り合い…?と冷や汗をかく少年に、やっぱりそうかと和希はひとり納得する。
自分や望実が場所を間違えたわけではない。何らかの理由があって、遊真と望実はもう1人と共に、この場を離れたのだ。
しかし、一体何の理由があって…?
和希が考えを深くしようとしたタイミングで、和希の携帯にメールが来る。
そして和希はふっと笑うと、携帯の画面を修に見せた。
「三雲くん、遊真は僕の弟と一緒に、ここにいるみたいだ。よかったら、一緒に行こう」
遊真と望実が千佳を追いかけると、彼女は警戒区域に入ろうとしていた。
「警戒区域に入っていくぞ。もしかしてボーダー隊員か?」
不思議に思って遊真が声をかけるが、望実は首を横に振る。
「彼女、ボーダー隊員じゃない!何かの事情があって、トリオン兵に襲われると分かって、そこに向かっているんだ!」
その感情を読み危険だと判断した望実は、千佳を追って警戒区域に入っていき、遊真もまたそれを追う。
そして、千佳を発見すると、彼女はトリオン兵『バンダー』のすぐ近くで、建物の陰に身を隠していた。
望実はもう一度彼女の感情を読み取ろうとするが、そこには一切何もなかった。
まるで、からっぽの心。
(心が読めない…?でも、このままじゃ危ない!)
「雨取さん!」
「えっ…、望実くん!?」
駆け寄ってくる望実と遊真の姿に、千佳は唐突に我に返る。
「どうして、ここに…!」
からっぽだった千佳の心に、今起こっていることが信じられないという衝撃と、他人を巻き込んでしまったという恐怖が渦巻く。
そして当然、サイドエフェクト『エンパス』を使って、ずっと千佳の心情を読み取っていた望実にも、その衝撃と恐怖が伝播する。
そして、ここはトリオン兵『バンダー』のすぐ近く。
気配を消すことが中断されてしまった千佳と、トリオン強者の望実が、『バンダー』の標的にならないはずがなかった。
「おい望実、チカ!『バンダー』がこっちに気づいた。はやく逃げるぞ!」
遊真の声に反応しそちらを向くと、自分たちに狙いを定めた『バンダー』の姿が目に入る。
その姿を確認した千佳はいっそう強い恐怖で心が埋め尽くされ、顔が青ざめた。
そして、本来ならばたった1体のトリオン兵に恐怖することなどない望実も、千佳の恐怖が伝染し、震えた体はその場から一歩も動くことができなくなってしまった。
そんな2人の状況を確認した遊真は、レプリカに声をかける。
「なぁレプリカ。トリガー使っていいか?」
『それを決めるのは私ではない。遊真自身だ』
レプリカの許可を得たと判断した遊真はトリオン体に換装し、『バンダー』の砲撃を『盾』印で受けた後、『強』印で強化した拳で『バンダー』を撃破した。
そして、その後すぐに和希と修がその場に駆け付ける。
「望実!遊真!!」
「千佳!無事か!?」
これが、三雲修、雨取千佳と、漆黒の兄弟との出会い。
こうして、運命の歯車は廻り始める。
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